プーログ

ジャーナリストから転身 40代妻子持ちが自由に生きてみた

脱サラ40代妻子持ち【背骨を折る絶体絶命のピンチ】そして大人に…

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家族持ちの身でありながら、2年ほど前におもむろに会社を辞めた僕ですが、本当に人生に山あり谷ありです。

 

ブログなどの執筆活動でようやく収入増への光が見え始めた矢先、いま思えば考えられないほど子供じみた軽率な振る舞いで、「背骨」を折ってしまいました…。

 

悪い展開が続くと、もうロクなことがありません。

 

卑屈な思考が悪循環を生み、これまで積み上げてきた「努力の結晶」も、砂山のようにさらさらと崩れていきます。

 

振り返ると、けがや病気は人に自慢できるほどたくさん経験してきました。

 

骨折や靱帯断絶はまだ軽い方で、サッカーボールごと蹴られて腎臓が傷ついたり、200万人に1人の割合で発症する奇病を患ったり、はしかに2度もかかったり――。

 

そんな僕でも、腰の骨まで折るとは想像だにできませんでした。

 

それも、脱サラした妻子持ちの立場で…。

 

 

細り続ける収入に反比例し、肥大化していく腹回りの脂肪も厄介です。

 

プーではなく、もはやブーです。

 

今回は、僕を絶望の淵へと突き落とした2か月前の出来事をご報告いたします。

 

 

中古車屋さんで

ときは7月上旬、事故が起きた場所は、愛車の無料点検を受けるために一家で訪ねた町の中古車屋さん――。

 

「点検には1時間ほどかかかるそうだから、隣のショッピングモールで時間をつぶそう」。

 

そんな僕の提案に、家族は誰も耳を貸しません。

 

2人の我が子は、おもちゃが散乱するキッズスペースから出ようとせず、妻も「面倒だ」と知らん顔。

 

スマホに視線を落としたまま、銅像のように動きません。

 

ちょっと意固地になった僕は、隣のショッピングモールで一人「ウインドウショッピング」と洒落込むことにしました。

 

いざ一人で慣れないところに足を踏み入れると、何をしていいか分からないものです。

 

家電量販店でマッサージチェアに座り、ステーキの食品サンプルに微笑みかけ、UFOキャッチャーに大金をつぎ込むカップルを温かく見守るなど、無意味な時間を過ごします。

 

いい加減、一人でいるのも馬鹿らしくなり、中古車屋さんに戻ろうとしたところで、魔が差しました。

 

 

DIVE

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ショッピングモールの自動ドアを出て、最初に僕の視界に飛び込んできたのは、モールと中古車屋さんとの間に連なるフェンス。

 

よくみると、この境界線上には一部フェンスのない空白地帯があります。

 

中古車屋さんに戻る「正規のルート」は、フェンスに沿ってぐるっと回り込み、歩いて5分ほどの道のりになります。

 

フェンスのない空間からショートカットすれば、中古車屋さんには1秒で到着する計算です。

 

ただ問題なのは、この場所が「絶壁」になっている点。

 

ショートカットを試みる場合、背丈ほどの高さのところから、飛び降りねばなりません。

 

それは運動不足の40男が挑戦して、無事で済むはずのない高さです。

 

 

勇気の証明

僕はまだ小学生だったころ、自分の勇気を試す手段を2つ持っていました。

 

ひとつは、一人でお化け屋敷に入ること。

 

そしてもう一つが「高いところから飛び降りる行為」でした。

 

家の屋根からジャンプしたときは、己(おのれ)の恐怖心に勝った気がしたものです。

 

 

これは、当時週刊少年ジャンプで連載していた本宮ひろ志さんの作品「ばくだん」という漫画の影響です。

 

主人公の少年が崖から飛び降りる雄姿に、当時の僕は魅せられました。

 

それは、中層マンションと同じくらいの高さの崖から飛び降り、木造船の甲板を突き破って着地する一コマでした。

 

ちなみに、体重60㎏の人間が落下した時にかかる衝撃は、1mの高さでも1.5tに及ぶそうです。

 

Gをすべて背骨で受け止める

若かりし頃の感覚そのままに、僕は若干ためらいつつも、思い切ってダイブしました。

 

落下中、制御不能の感覚を味わったのは今回が初めてです。

 

これは明らかに「加齢による影響」です。

 

少し前のめりに着地して手をつこうにも、体がまったく動きません。

 

一本の矢のように、鋭く大地を目指します。

 

 

「ドスン」

 

 

手もお尻もつかず、屈んだ姿勢のまま両足で着地しました。

 

落下の衝撃は膝のクッションでは吸収しきれず、すべて背骨に集中する格好に。

 

鉛のミートボールのような姿で、一人、じっと動けずにいます。

 

まだ痛みは襲ってこないものの、腰の異変は明らかです。

 

「やってしまった」

 

後悔するも後の祭りです。

 

 

ダメージの程度

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こうなると、気になるのはダメージの程度です。

 

何より、丸く動かぬ父の姿を我が子にさらすわけにはいきません

 

そう思い、恐る恐る立ち上がると、明らかな違和感が背中を通り抜けていきました。

 

ただ、体をひねったり、屈んだりする動作は、本能がストップをかけて許してくれず、ダメージの大きさはこの時点で未知数です。

 

そこで仕方なく、ペンギンのような直立の姿勢で家族のもとに戻りました。

 

 

妻の反応

よちよち歩きで中古車屋さんのカウンターにたどり着いた僕。

 

妻はけげんそうな面持ちで、こう言いました。

 

「何してるの?」

 

旦那の人生そのものを否定する深い一言でしたが、こちらとしては妻のお説教どころではありません。

 

簡単に事情を説明しつつ、目の前の丸椅子に腰を掛けたとたん、この日初めて腰が悲鳴をあげました。

 

「あっ…」

 

情けない声を出しながら、僕はこのとき初めて、いろんなことを後悔しました。

 

 

整形外科で

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当日駆け込んだ病院の対応が余りにも適当だったため、翌朝、あらためて僕は整形外科に足を運び、レントゲンをとってもらったところ、「第四腰椎の圧迫骨折」と診断され、「全治2か月の重症」と宣告されました。

 

胸まである頑丈なコルセットを巻いて、この先2か月、直立不動の体勢で生活していかねばなりません。

 

コルセットは3万円近くするオーダーメイドで、銅と亜鉛の合金でできた平板が縦に8本通された代物です。

 

ヘルニアにあえぐ名倉潤さんほどではないにせよ、僕は体の自由を奪われ、精神的に参ってしまいました。

 

そこに、神社仏閣系のブログの不調が重なり…。

 

「もうどうにでもしてくれ…」

 

これが2か月前の心境です。

 

 

反省の先に

どこまでも卑屈になった僕は、成功している人を妬む気持ちを起こし、離職を後悔し、お金を得るためのズルい手段を夢想したりもしました。

 

そんな「か弱い自分」がいることを思い知らされるなかで、「大人とは何か」について考えました。

 

とても40歳を過ぎたおじさんの行動とは思えませんが、せんべい布団のなかで真剣に思考を巡らせました。

 

そこで、自分なりにたどりついた一応の結論というのが「大人と子供の境目は、自分の行動に対する責任がとれるかどうか」という点でした。

 

いわずもがな、限りある時間のなかで人は何をするにも「自由」です。

 

成功しようが、失敗しようが、けなされようが、ほめられようが、自分の行動に責任を持ち、その結果を受け止めることが「大人の心構え」なのではないでしょうか。

 

 

 

大人というのは、社会の規制を受ける存在というより、すべての責任を負う限りでもっとも自由な立場なのではないか。

 

結果がどうであれ、まわりの評価がどうであれ、最後に笑って死ねる人こそが、人生の勝者ではないか。

 

 

そう感じたときに、びっくりするほど気持ちが軽くなりました。

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 

 

脱サラ40代妻子持ちのいま【陰気な態度に妻の怒り爆発】失敗の覚悟も重要!?

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こんにちは、プーです。

 

人生山あり、谷ありといいますが、いま僕は「谷の川底」に沈殿している気分です。

 

月間20万PVに迫る勢いだった「本業ブログ」(パワスポ・神社仏閣系)のアクセスが、ここにきて原因不明の落ち込みをみせています。

 

「2~3割減」とったところでしょうか。

 

もはや誤差の範囲ではありません。

 

プーログは僕個人の愚痴をつづるものではありませんが、今の心境を包み隠さずに公開すると、かなり参っています…。

 

「もう全部やめてバイトでもしたい!」

 

急に怖くなり、さきほどまで自室(兼物置部屋)にひきこもっていました。

 

ようすを見にきた子供に対しても、口から出るのは「自虐的な言葉」ばかり。

 

 

僕:「ごめんね。お父さんみたいになっちゃだめだよ」

息子:「うん分かった、お母さんのところにいってくる!」

僕:「…」。

 

 

楽しいはずの休日の午後、陰気な僕の態度に妻の怒りは沸点に達し、ついには真顔でお説教をされる羽目に。

 

「ちょっとアクセスが落ちたぐらいで何?子供にまで心配かけて!そのくせ、また(ゲームを)ピコピコやってたでしょ!」

 

まったく、おっしゃる通りです…。

 

僕のハートはたぶん、炭酸せんべいほどの堅さしかありません。

 

落ち込みの原因を分析すると…

ただ、なぜ僕はこんなに落ち込んでいるのか。

 

自分でも不思議に思った瞬間に、フッと心が軽くなりました。

 

これが「いまを生きる」ことの秘訣なのかもしれません。

 

そして、少し冷静になって考えてみました。

 

  • 収入源をあえてブログ一本に絞り、人生をかける

 

今回気持ちが著しくへこんだ原因は、この「決意」にすがり付いたところにあるとみて間違いありません。

 

万一、目標に到達できなかったとしても、重要なのは「負け方」です

 

そこから何を得るか。

 

きっと、これが肝です。

 

卑屈な自分に足りなかったもの

フリーの立場になると、自分の人生を好きなように設計できる分、誰も進むべき道を示してはくれません。

 

そのため、僕のような不器用な人間にとっては、自分の歩く方向を定める「決意」や「マイルール」みたいなものが、やはり大切になります。

 

ただし、「あるもの」が欠落していると、今回のように、ちょっとしたことですべてに裏切られたような錯覚を起こします。

 

あるものというのは、ずばり「失敗も辞さぬ覚悟」です

 

無謀な沖縄旅行を決行したあのときの勇気はどこにいってしまったのか。

 

一度手にした財産は、失う恐怖で人を縛る厄介な側面があります。

 

フリーの人間にとって、これはもっとも重要な心構えかもしれません。

 

決意は時に独善的に

また、決意やマイルールは「独善的」になりやすい点でも注意が必要です

 

今回の一件でよくわかりましたが、とくに僕のような堕落した人間は、このマイルールですら気づかぬうちに「逃げの口実」に使ってしまうためです。

 

  • 原稿を書いてさえいれば誰にも会わなくていい
  • アクセスが右肩上がりに伸びているから特に勉強も不要
  • 次の展開を考えるのはまたそのうちに

 

いざ字にしてみると、自分の愚かさが浮き彫りになります。

 

ようするに僕は、煩わしい挑戦も次につなげるためのリスクも先送りにするため、都合よくマイルールを解釈し、「甘美な引きこもりの理由」にしてきたわけです。

 

現状維持にも前進が必要 

そもそも、世の中は常に変化のなかにあります。

 

だからこそ、かけがえのない「いま」を味わい、過去を教訓に、前を向くのがとても大切です。

 

現状維持でさえ、前進なくしてはままなりません。

 

  • 人の寄り付かぬ険しい山の上にしか咲かない花がある
  • 人とのご縁のなかにこそオイシイ話がある
  • 失敗は成功の基

 

マイルールを都合よく解釈・運用しているうちに、そんなビジネスの基本すら見えなくなっていました。 

 

マイルールの変更はタイミングが命

とはいえ、立てた誓いをコロコロ変えてしまえば、元も子もありません。

 

立てた誓いとマイルールの見直しはきっと「タイミング」が大切です。

 

  • 全力を注いで最終的に結果が出なかったとき
  • 貯金が尽きたとき
  • 一定の目標値に到達したとき
  • 新たなチャンスがめぐってきたとき

 

僕の場合、現時点でブログを軸からはずしてしまうのは「単なる逃げ」になってしまいます。

 

そんなとき、必要なのは「違う角度での努力」、「風向きを読む力」、そして「マイルールの強化」だと考えます。

 

そんなわけで、本業ブログもプーログも頑張って続けてまいりますので、どうか末永くお付き合いくださいませ。

 

また、プラスアルファの部分として、すぐにピコピコしようとする姿勢を悔い改めて、「フリーライターとしての仕事」を開拓していく方向です。

 

 

 何か進展があれば、プーログでご報告いたします。

 

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

また、温かいコメントを寄せて下さる皆さまに対し、この場を借りて深く感謝を申し上げます。

 

40代脱サラ/会社を辞めて得た宝すら…ショックの中に思い出す「幸せのありか」

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こんにちは。

 

プーです。

 

ご無沙汰してしまい申し訳ありません…。

 

これまでは、なるべく「脱サラ」をテーマにまとめてきましたが、編集方針を転換し、雑感を含むライトな記事も掲載してまいります。

 

さて、今回のテーマは「子供の成長と手持ちの宝」についてです。

 

 

子供と過ごす時間

僕が脱サラを決めた理由の一つとして「(人生において)子供と過ごす時間を余すことなく満喫したい」という思いがありました。

 

もうすこし具体的にいうと、以下のイメージです。

 

  • 可愛い盛りの子供との時間を悔いの残らぬよう味わい尽くしたい
  • 平日の学校行事に参加してみたい
  • 専業主婦と同じ距離感で子供の日常を見てみたい
  • 体調不良の際には保健室まで駆け付けたい
  • 永遠の夏休みを子供と一緒に過ごしたい

 

サラリーマン時代、単なる妄想でしかなったそんな夢も、いまは確かに僕の手の中にあります。

 

これは、大きな代償を払って手に入れた「生涯の財産」といえるかもしれません。

 

その点に関しては、申し分のないほど満足しています。

 

ただ、そんな最高の時間にも、必ず終わりが来ることに気づかされました。

 

恐ろしいほどのスピードで、子供は成長するからです。

 

 

娘の行動にショック受け

とくに女の子は、女性としての意識が芽生えるにつれ、キャンディーのように甘ったるい親子関係から段々卒業していくようです。

 

銭湯の男風呂に入るのを嫌がるようになり、あれだけせがんだ抱っこを卒業し、ついには父と手をつなぐのも恥ずかしいと思うように…。

 

休日のイズミヤで、そっと僕から距離をとる娘の行動に、超ド級の親バカであるプーは寂しくて一人半泣きになったわけです。

 

「子どもの健全な成長のあかし」といえばそれまでですが、すべては常に変化の中にあるのだと思い知らされました。

 

「フリーになって得た貴重な宝」でさえ、手のひらからこぼれ落ちていくのが現実です。

 

「いま」に生きる価値

ただ、外出先でのつれない娘の態度にショックを受けたことで、僕は大切なことを思い出しました。

 

家計を心配するがあまり、忘れかけていた「いまを生きる」ということです。

 

もちろん、古い映画のタイトルではありません。

 

サラリーマンを続ける人も、僕のようなフリーを目指す人も、結局は皆「いま」を生きる以外に選択肢はありません。

 

そして、過去や未来に照らされることなく、それみずからが光を放つ「いま」という時間の中にある宝は、身分も立場も収入の多寡も関係なく、等しく輝く代物です。

 

「お父さん、一緒に寝よ」と甘えてくれる彼女と僕のいま。

 

過去、未来、常識、希望、不安、比較などの物差しをいったん横に置き、手持ちの宝に光を当てててみると、案外、つかみどころのない「幸せの絶対値」がみえてくるのかもしれません。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

40代妻子持ちの脱サラ 2年たっても心は不安と希望のカオス

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こんにちは。

 

プーです。

 

プーログは、40代妻子持ちの僕がおもむろに脱サラし、自力で収入源の確保を目指す歩みについて、リアルタイムでつづっているブログです。

 

更新が遅れて、本当に、本当にすみません…。

 

さて、今回のテーマですが、「脱サラ後の恐怖」についてです。

 

実は先般、読者様から質問を頂きました。

 

「脱サラして恐怖や不安を感じるときは、どんな時か」を問う中身です。

 

せっかくなので、現状報告とご回答を兼ねて、記事化することにしました。

 

 

脱サラ後の恐怖とは

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当てのない脱サラから2年が過ぎたいまも、粘着質に付きまとう恐怖と不安があります。

 

それはずばり「お金にまつわる不安」です。

 

「週給40円」の極貧生活を切り抜けて、最近、ブログに専念する僕の懐にも多少のお金が入ってくるようになりました。

 

とはいえ、退職金はとうの昔に使い切ってしまい、毎月、赤字の生活を続けています。

 

 一家としての貯えは、まだわずかばかり残っていますし、税金や社会保険料の類が現役時代の10分の1ぐらいになったのも「うれしい誤算」でしたが、それでも収支がトントンに至らぬ焦りは決して小さくありません。

 

もっとも「物販での小銭稼ぎ」はそんなに難しいわけではなく、その気になれば足らず分を補う手もあります。

 

それでも、僕の場合、趣味と実益を合致させるため、あえてブログ一本で勝負しているというのが現状です。

 

また、仮に家計を支えるだけのお金が得られたとしても、不安が消えることはないものと思われます。

 

それは、「想定外のリスク」があるためです。

 

実際、物販にせよブログにせよ、「突然のルール変更」などに振り回される個人プレーヤーは少なくありません。

 

 

アクセス数の激減

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実はプーログ、この4月にアクセス数が激減しました

 

もともと収益化を目指して始めたブログではありませんので、家計という点では傷も小さいのですが、精神的なダメージがないといえば嘘になります。

 

更新をサボったのが駄目だったのか、あるいは、気功師から指摘のあった「僕の体から発せられる電磁波がいけなかったのか」

 

理由のよくわからないまま、いきなり後ろから鉄砲で撃たれるのは恐ろしいものです。

 

これが本業側のブログだったらと思うと、正直、生きた心地がしません。

 

 

また、両親との関係も「元通りに修復した」とは言えない状況です。

 

父も母も「男は社会に出て稼いでくるもの」という感覚をもっています。

 

実際、働きに出る妻の負担を憂い「もうしわけない気持ちで一杯」と語っていました。

 

 

とくに母は、雇われの身に戻らない僕の姿勢に、相当不満を持っているようです。

 

それは、「まっとうに生きて幸せになってほしい」という両親なりの価値観であり、愛情表現であり、親としての祈りなのかもしれません。

 

ただ(どこかで書きましたが)、親が子を想うのと同様、子も親を想うものです。

 

僕としても、「両親にはできれば心に平安を取り戻し、健康なままでいてほしい」というのが本音です。

 

そして、両親との関係を回復する有力な手段は、いきつくところ「まとまった収入源の確保」に他なりません。

 

きっと、「余計なプレッシャー」というのも、脱サラした者の宿命です。

 

 

恐怖は「人のさが」からも

恐怖や不安はある意味で、外部からの刺激を受けて起きる「心の反射」ともいえます。

 

何らかのトラブルに触発されて生まれる「悪い未来予測」からくるものです。

 

ただ、目の前の問題が解消されたところで、先々、恐怖や不安から解放されることはまずないと思います。

 

それは、安全・安定を求める心がリスクの芽を摘み取ろうとして「新たな不安を掘り起こしてくる」ためです。

 

つまり、武器を持たない丸腰の者は、安全・安定を追えば追うほど、不安も付いてくるわけです。

 

 

というわけで、僕はしょっちゅう不安や恐怖にさらされています。

 

「バイトしてもっと楽に稼ぎたい」と心が折れそうになることもしばしばです。

 

その割には、妻と子供が就寝するまでの時間、真面目に働こうとしませんし、ゲーム中毒も治りません。

 

アリとして働き続けた僕は、40歳を過ぎてから「キリギリス」になってしまったようです。

 

 

ただ退職後、「動けるうちに青春を謳歌するのも悪くないのでは」と思うようになりました。

 

不安や恐怖があっても、元の職場に戻りたいとは一度も思ったことがありません。

 

実は先般、プーログの「電子書籍化」のお話も頂きました。 

 

電子書籍はあまり知らないこともあり、今回は見送らせていただきましたが、紙媒体での依頼だったら飛びついていたかもしれません。

 

いずれにしても、とてもうれしく、ありがたいオファーでした。

 

そんなわけで、僕の脱サラ生活は「安らぎ」「恐怖」「期待」「挫折」「喜び」などがないまぜになったカオスの状態です。

 

離職を親戚に伝えた結果【40代妻子持ち男の現実】堅物の父が意外なフォロー

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こんにちは。

 

管理人のプーです。

 

読者の皆様、なかなか更新できずにすみません。

 

「熱烈なエール」を送ってくださる人もいらっしゃるようです。

 

そうした方には、ありがたいを通り越し、もう申し訳ない気持ちでいっぱいです…。

 

 

さて、40代妻子持ちで「自称ブロガー」(実質無職)となったプーは、会社を辞めてから2年近くがたってようやく、親戚一同に「離職した事実」を伝える機会を得ました。

 

報告の場になったのは、休日に開かれた飲み会で、メンバーは幼い時分から僕を知る2人の叔父と年の離れた従兄(いとこ)1人、そして父。

 

僕との歳の差は全員、20歳前後になります。

 

名のある企業に勤めていた人ばかりで、メンバー同士割と仲が良く、現役時代はときどき飲みに誘って頂いたりもしました。

 

会社を辞めてから、もうずいぶん時間もたっていますし、当方も立派な中年のおじさんなので、怒られたりするようなことはないとは思いましたが…。

 

何より意外だったのは、父の一言です。 

 

今回は、その顛末(てんまつ)についてまとめました。

 

見てみぬふり

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飲み会の舞台に選ばれたのは、住宅密集地のど真ん中にある小さなお蕎麦屋さん。

 

休日ということもあり、2階の座敷もすべてお客で埋まっている状態で、むさ苦しいおじさん一行も、一つの小さな卓を5人で囲む羽目になりました。

 

メンバーは、来年定年を迎える某ハウスメーカーの現役選手1人、某電気工事会社の嘱託1人、定年退職者2人、無職1人という構成。

 

このメンツは親戚の中のいわば「仲良しグループ」で、飲み会も今回が初めてではありません。

 

 

 主催者は、現役サラリーマンと嘱託の2人ですが、会うのはもう3年ぶり。

 

いまから思えば、「しばらくそっとしておこう」と僕の離職に見てみぬふりを決め込んでいたに違いありません。

 

堅物の父への配慮か、野次馬根性をみせぬ大人としての品性か。

 

詳しい理由までは分かりませんが、いずれにしても皆、家族を守るのに精一杯生きてきた人たちばかりです。

 

愛情の矛先を家族一点に集中させ、ときに信念を曲げ、涙を飲み…。

 

そんな末に、彼らはようやく「穏やかな老後のチケット」を手に入れたのかもしれません。

 

 

変な空気も…

そもそも、会社を辞めたことを皆知っているのか――。 

 

20年続けた会社をおもむろに辞めてしまうという愚行について、快く思わぬ父の手前、自発的にこの事実を伝えるわけにもいきません。

 

ただそこは、飲み会開始直後にはっきりしました。

 

近しい間柄での会食は、よそよそしい「時候の挨拶」にはじまります

 

一定の距離感を置いた流れの悪いコミュニケーションにも、違和感を覚えずにはいられません。

 

儲けたお金を社員や世間に還元しない企業に対する批判など、おじさんらしくもどこか熱のこもらぬ会話が続きました。

 

 

「ありゃ、やっぱり知ってたんだ…」と心の中で思う僕。

 

このとき僕にとって、先に待つ最悪の展開は、空々しい会話に終始し「あえて触れない」姿勢を貫かれることでした

 

「裁かれる立場」の気分になったのは、きっとまだ僕の中に「古い常識」がこびりついてるためでしょう。

 

そんな杞憂(きゆう)を打ち破ってくれたのは、飲み会の言い出しっぺの一人、某電気工事会社の嘱託になった叔父でした。

 

「ときにプー君よ、会社を辞めたんだって?」

 

 

いざ打ち明けてみると…

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飲み会開始から30分。

 

僕は少しボーっとしながら、すべての会話を聞き流していたため、叔父の質問には完全に虚を突かれた格好となりました。

 

「いやあ、そうなんですよ。あははは」とごまかし、取り繕うように弁明の言葉を探す僕。

 

どこか残念そうな表情を浮かべる面々に対し、次につなげる言葉がなかなか浮かんできません。

 

 

ただ、こんなときの対処法は知っています。

 

胸の内を堂々と正直に伝えることです

 

 

「いま、ブロガーをやっています。週給40円の時期もありました。皆さんへのご報告をためらってきたのは、離職に大反対した両親への配慮からです。僕は何を言われようが、どう思われようがあまり気にしませんが、そこだけはどうしても…」

 

一同、しかめた顔の上に笑顔をコーティングしたような不自然な面持ちで、場は微妙な空気に包まれました。

 

 

意外な父のフォロー

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親戚のおじさんらは、「ブロガー」という言葉どころか、スマホの操作さえ怪しいひとたちばかりです。

 

叔父:「え、ブローカー?」

 

プー:「い、いえ。ざっくり言うと、インターネットでライターの仕事をやっています」

 

 

ある意味、想像通りのリアクションでしたが、意外だったのは父のフォローでした。

 

「こいつは、俺が酒に酔って駅のエレベーターから転げ落ちた時に、すぐに東京からかけつけてくれた。酔っぱらいの搬送先がみつからない中で、受け入れ先の病院を手配してくれたのもこいつだ。今回、皆に報告しなかったのも、親への気遣いからだ。許してやってくれ」

 

親戚への離職に関する報告義務があるかはともかく、正直なところ、この一言こそが不意打ちでした。

 

穏やかながらも、少し頭の固い父。

 

もともと、簡単に胸の内を明かすような人ではありません。

 

そんな風に思われていたというのは、このときはじめて知りました。

 

 

離職からもう2年近くが経過しているとあって、さすがに父のフォローに涙を流すことはありませんでしたが、僕はとても救われた気分になりました。

 

 

両親との思い出話に花 

そんな告白めいた父の発言により、場の空気は一変しました。

 

  • 「お前ならできる」
  • 「むしろ良かったのでは」
  • 「このご時世、自分で稼げるスキルを身につけた方が得策かも」

 

親戚一同からも、どこかあきらめに似た「フォロー」の言葉をかけて頂きました。

 

 

そうした和やかなムードに後押しされ、話の矛先は「参加者それぞれの両親との思い出話」に向きます。

 

 

孫を溺愛する両親への驚きと感激。

母を施設に入れざるを得なかった後悔と懺悔。

二度と帰らぬ少年時代の日々と今はなき故郷への郷愁。

 

 

「むかし飼った犬を思い出した」

「畑を手伝った」

「父と釣りに行った」

「母にデパートに連れて行ってもらった」

 

僕がジンジャーエールをちびちび飲む傍らで、親戚のおじさんたちは口々に懐かしい昔話に花を咲かせ、ビールも日本酒に代わって、お酒がどんどん進みます。

 

目に涙を浮かべ、かすかに笑うおじさんグループは、周囲から見るときっと不気味に映ったに違いありません

 

いまは父として 

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飲み会から2時間。

 

家族サービスを理由に僕は先に席を立ち、お礼を言って帰宅しました。 

 

 いまは僕も父の身分です。

 

子供たちもいつか、僕との日々を懐かしく振り返る日がくるのでしょう。

 

「穏やかな老後のチケット」を捨てるリスクまで冒し、手にした自由と家族との時間――。

 

尽きぬ不安があるのも事実ですが、僕は会社を辞めたことを一切後悔していません。

 

 

※週1回のお約束が守れず、改めてお詫び申し上げます。

これに懲りず、今後ともプーログをよろしくお願いいたします。

 

友情や恋愛よりも「冒険」の賞味期限は長い!?40代家族持ち脱サラ男の独り言

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こんにちは。

 

管理人のプーです。

 

プーログは、20年勤めた会社をおもむろに辞めてしまい、現在独力で収入源の確保を目指す僕の歩みについて、リアルタイムでつづっているブログです。

 

一週間に一度ぐらいのペースで更新しています。

 

さて、まさかこの歳になって「脱サラの道」をチョイスするとは思いもしなかった僕ですが、人生には「少年時代」、「思春期」、「青年期」など、各段階ごとに経験・卒業しておくべき「レベル別のテーマ」というものが存在するように感じます。

 

  • 友情
  • 恋愛
  • 冒険
  • etc

 

一部週刊少年ジャンプの編集方針に重なりますが、仮にしかるべき時期にこうしたテーマを経験、あるいは卒業できず、次のステージに持ち越してしまうとどうなるか。

 

下手すると、満たされぬ渇望を抱えたまま、生きていく羽目になります。

 

たとえば、恋の味を知らぬがゆえに「キャバクラ」などにハマってしまう人が、往々にして痛い目にあいがちなのは、若かりし頃に済ませずにいた「経験・卒業」に原因があるとみられます。

 

今回は、昔大好きだった童話の思い出とともに、そのあたりの話題についてまとめてみました。

 

3分ほどで読めると思いますので、よろしければお付き合いください。

 

娘の宿題に思わぬ邂逅

最近、小学校に通う娘の宿題で、童話を読む機会を得ました。

 

親子で同じ本を読み、コメント程度の感想文を提出するという課題です。

 

この粋な宿題を通じて、僕が娘にプレゼントしたのは「アラビアンナイト」。

 

小1のときに読んだ思い入れのある一冊で、たくさんの短編からなる「イスラムの民話集」のようなイメージです。

 

当時感じた「ワクワク」を娘と共有したいと思ったのが、チョイスの理由です。 

 

出会いはクリスマスイブに

この本との出会いは、いまから40年近く前、忘れじの「12月24日」。

 

まだ低学年だった僕にとって、クリスマスは欲しいおもちゃが手に入る「極めて重要な日」だったといえます。

 

この日の朝、僕は大きな期待を胸に布団を蹴り飛ばして跳ね起き、枕元にあるはずの「おもちゃの存在」を確かめました。

 

ところが、そこに転がっていたのは、予想を覆す「とても小さな包み」です。

 

この包み、僕が切望していた任天堂のテレビゲーム「レーシング112」とは、まったくサイズ感が合いません

 

レーシング112は、ファミリーコンピューターが市場投入される以前に発売された代物で、以下の動画がその現物になります。 

 

「?」

 

事態を飲み込めぬまま、包装紙をバナナの皮ようにむいていくと、赤い太字が目に飛び込んできました。

 

アラビアンナイト一年生

 

その残酷な衝撃を、いまもはっきり覚えています。

 

サンタさんの正体

かくして、かつてない絶望感に打ちひしがれた僕は、クラスで噂になっていた「サンタさんの正体」を見極めるべく、父に〝カマ〟をかけます。

 

僕:「サンタさんって、本当はお父さんじゃないの?」

 

父:「あははは。そうだ」

 

屈託のない笑顔で父から伝えられた現実に、半泣きになる僕。

 

そんな崖っぷちの少年に、引導を渡したのは母でした。

 

母:「ちょっとお父さん、言っちゃダメでしょ!」

 

アラビアンナイト一年生

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そんな苦い思いとともに、手元に残った「アラビアンナイト一年生」。 

 

半ばやけくそで僕はこの本を読みました。

 

うつろな少年の目に光が戻るのに、そうは時間はかかりませんでした。

 

「…」。

 

当時、活字が大嫌いだった僕ですが、ページをめくるにつれ、異国情緒あふれるアラビアンナイトの怪しい世界観に魅せられていきます。

 

とくに夢中になったのは「ふなのりシンドバット」の物語。

 

巨大な鳥とともに島をめぐる空間の広がり、絶体絶命のピンチを乗り切るスリル、そして苦心の末につかんだハッピーエンド…。

 

経験と卒業

f:id:ueaki:20190305045154j:plain 今回、娘の宿題という流れから「アラビアンナイト一年生」との邂逅を果たすに至ったわけですが、大人になった僕が改めて読んでみたところで、あのとき感じた胸の高まりはなく、かすかな懐かしさを残すだけです。

 

とても寂しいことですが、童話の高揚感は二度と戻らないことを痛感しました。

 

これは、少年期、思春期、青年期などで得られる「大切な財産」にも、同じことがいえるのではないでしょうか。

 

友情、喧嘩、恋愛、失恋、挑戦、挫折、成功、失敗、勝利、敗北…。

 

学生時代にやり残した淡い恋愛も、受験の中で置き去りにした友情も、命を燃やすはずだった部活での不完全燃焼も、いくら悔いたところで、やり直しは叶いません。

 

逆に、絶望の中で手にしたアラビアンナイトのディープな味わいは、小学生の敏感なセンサーだからこそ感じ取れた輝きだったに違いありません。

 

しかるべき時期に、しかるべき経験を踏むというのがいかに大切か

 

それを子供に伝えるのが、きっと、親としての重要な役割です。

 

冒険の賞味期限

おもむろに会社を辞めてしまったいまの僕は、子どもの時分に焦がれ、ずっと置き去りにしてきた「冒険」という夢の残骸を追っているのかもしれません。

 

ただ、この冒険に感じるスリル、失敗、挫折、成功、恐怖、高揚は、すべて紛れもない本物であり、現実です。

 

育むべき旬や食べごろが存在する「恋愛」や「友情」などに比べて、冒険は賞味期限が長いものです。 

 

なぜなら、ぎこちない学生時代の恋愛も生涯の友と呼べる親友も、「若かりし頃にしか咲かない花」のようなものだからです。

 

ただ、「冒険」の賞味期限がいくら長いとはいえ、体力のあるうちに済ませるに越したことはないのも事実。

 

願わくば、子どもには大人になるまでの間に、大切な経験を済ませ、きちんと卒業していく道を歩んでもらいたい、と思う今日この頃です。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

脱サラ後は本物の贅沢を「味方」にすべし<40代妻子持ちの体験より>

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こんにちは。

 

管理人のプーです。

 

プーログは、40代妻子持ちの身でありながら、2018年、おもむろに会社を辞めてしまった僕の歩みについて、リアルタイムで綴っているブログです。

 

会社を辞めて既に2年近くがたちますが、最近、「染み入るようなありがたみ」を感じることが増えました。

 

ありがたさを感じる「アンテナの感度」が良くなったと考えるべきか、「満足のハードル」が下がってしまったと捉えるべきか。

 

この際、どちらが正解かはさておき、「不満と我慢の手ごねハンバーグ」みたいな顔をしていた当時に比べると、多少なりとも精神状態がまともになったのは間違いありません。

 

いまの僕は「不安があっても不満はない」、もしくは「我慢はあっても苦はない」といった具合です。

 

これは、人生のスパイスである「贅沢」についても同じことが言えます。

 

ただ、贅沢をしたときに得られる満足の大きさは、金額の大小だけで決まるものではありません。

 

前置きが長くなりましたが、以下に詳しくまとめますので、どうか数分ほどお付き合いください。

 

 

あいまいな贅沢の基準

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会社を辞めて「世捨て人」のような生活を続けていると、現役時代に抱いていた「贅沢の基準」というのがいかに曖昧(あいまい)なものかが見えてきます。

 

当時、僕は仕事の流れで、幾度となく偉い方々に「高級なお店」に連れて行ってもらいました。

 

ミシュランガイドで星のつく店も、VIPが贔屓にしている銀座の高級クラブも、一通り覗かせて頂きました。

 

嫌々ながら、ほんの少しゴルフをかじった時期もあり、何度かコースを回った経験もあります。

 

大手企業や役所の幹部からすれば、いずれも単なる「社交場」に過ぎないのかもしれませんが、正直なところ、僕はこの習慣にどうしても馴染めずにいました。

 

  • 女性と交わす上っ面の会話がそんなに楽しいのか
  • 大切な余暇とお金をつぎ込むほどゴルフは楽しいものなのか
  • なぜ懐石料理ばかりなのか
  • おかずとご飯を一緒に食べたい

 

このやるせなさを例えるならば、逆立ちしながら高級ステーキを食べているような「違和感」です

 

正直に告白すると、そこには感激も、罪の意識も、満足も、満腹もありませんでした。

 

「うわー、すごいですね!」と調子のいい言葉だけがむなしく響くばかりです。

 

これは、あくまでも個人的な好みの問題といえますし、きらびやかな銀座の夜も一見さんお断りの高級料理店も、存在自体を否定するつもりはまったくありません。

 

何より、こうした社交場が仕事を円滑に進めるための「潤滑油」になることも知っています。

 

僕がここで強調したいのは、お金をかけた贅沢な場というものが、そのまま満足につながるかどうかは「別問題」という点です。

 

贅沢な行いから満足を引き出すには、お金の消費だけでは不十分というわけです

 

 

贅沢から満足を得るには…

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では、どうすれば贅沢から満足を効率よく引き出せるのか。

 

その前提になるのは、「いつ」「誰と」という条件です

 

たとえば、堅苦しい仕事の延長線上ではなく、大切な家族と囲む御馳走であるならば、みえる景色もガラリと変わるに違いありません。

 

それはきっと、「本当の自分」が「本当の御馳走」を食べることになるからです

 

お金で買えない贅沢も

贅沢というのは、一般的に「身の丈を超えた消費」を指します。

 

「度を超すことで得られるカタルシス」、「虚栄心を満たすための俗人的な行い」と捉える人もいるかもしれません。

 

いずれにしても贅沢は、どこまでいっても「感じるもの」です。 

 

言葉の定義の問題と言われればそれまでですが、贅沢が単なる浪費と一線を画す以上、そこに満足を伴わぬ限り、「見せかけだけの偽物」といっても過言ではありません。

 

つまり、見た目上の贅沢はお金で買えても、満足を伴う「本当の贅沢」は、お金だけを積んでも手に入らない訳です。

 

贅沢の本質は

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もっというと、贅沢の本質というのは、実は「身の丈を超えるところ」にあって、「消費」とは別問題なのかもしれません。

 

これが万能感の強い「お金」に絡みつくことによって、事の本質を見えにくくしているのだと思います。

 

つまり僕は、本物の贅沢というのは「度を超えたしあわせを感じるシチュエーション」のなかにあると考えるわけです。

 

子供を寝かしつける布団の中、憧れの女性の膝枕、さえない脱サラ40代妻子持ち男に届く温かい読者様からのメッセージ…。

 

僕は仕事のお付き合いとして食べた「八寸」の味は覚えていませんが、九州一周旅行で家族と食べたチキン南蛮の味はきっと一生忘れません。

 

そうした意味で、結構な収入を手放した代わりに得られた自由な時間こそが、最高の贅沢を実現する僕の宝といえるのかもしれません。

 

贅沢を敵とみなす社会で

ひるがえって、節度を重んじる日本の社会では「贅沢は敵」とみなす感覚が根強く残っているように思います。

 

独特の倫理観とでもいうのでしょうか、昔から「感謝をもって生きよ」みたいな教えもそこかしこで説かれます。

 

  • 贅沢をいうな
  • ありがたいと思え
  • 君は恵まれている
  • 感謝が足りない

 

嫌気が差した社員を諭すのにも、この教えがたびたび登場しますが、果たして今の時代、この言葉をそのまま鵜呑みにしてもいいのかどうか。

 

どうしても、僕には「妥協しろ」といっているようにしか聞こえません。 

 

少なくとも感謝というは、ある種の「気づき」をスイッチに、自然ににじみ出てくるものであり、無理矢理ひねり出せる感覚ではありません

 

不純物を取り除き、根本的なところだけを字にすると、いかに困難な注文であるかがよくわかります。 

 

  • あちらよりはまだマシ=感謝

 

むしろ贅沢な人生を追う方が「感謝の気持ち」が強まるのではないか、と思う今日この頃です。

 

実際、友達と行く300円均一の居酒屋ですら、今の僕には贅沢な幸せです。

 

この先、仮にお金持ちになったとしても、ウインナーや唐揚げなどをテーブルにずらりと並べる至福感は、きっと消えることはありません。

 

戦争を経験したお年寄りのごとくです。

 

そうした意味で、プチ貧乏の経験も捨てたものではありません。

 

あ、念のためお断りしておきますが、決して負け惜しみじゃないですよ…。

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

※なかなか更新できずに申し訳ありません。

不定期で執筆しておりますゆえ、ブックマークや読者登録などを通じて、今後もご贔屓にして頂けると幸甚です。