僕には小学1年生の娘がいる。
僕は彼女に激アマだ。
いつもベタベタしていて、些細なことではまず叱らない。
もう可愛くて仕方がないのだ。
娘: 「宿題の計算カード、学校に忘れてきた」
僕: 「そっかそっか、次は気をつけようね。いいから一緒にうまい棒食べよ」
娘: 「字が汚いって、先生に叱られた」
僕: 「お父さんも汚いよ。頑張ろうね。それより宿題やったら100均行かない?」
いわゆる親バカである。
そんな僕でも、叱るときには怒鳴り声をあげ、心の芯まで響かせる。
娘:「秘密にしていたのを忘れてた。じいじに話しちゃった」
僕:「バカかお前は!ちょっと座れ」
普段とのギャップに彼女は強いショックを受けてしまうので、怒った後はまた米国産の駄菓子のように激アマなお父さんに戻る。
偏りのない目
特に「ごみをポイ捨てする」「食べ物を残す」「嘘をつく」などのしつけには容赦しない僕だが、集団生活にまつわる彼女の「なんで?」には、答えに窮することが多い。
「チクチク言葉を使う意地悪な子がいるのはなんで?」
「友達が『死にたい』って言うのはなんで?」
「仲間外れにされる子がいるのはなんで?」
彼女はきっと、僕に善悪のジャッジを求めているのではない。
といっても、「動物の防衛本能」にまつわる根源的な理由が聞きたいわけでもないのだろう。
集団生活を営む中で「無駄なもの」の存在を見抜き、その疑問を指摘しているのだ。
よくいえばニュートラルな感性、悪くいえばオツムがお留守だからこそ、彼女には「しあわせのありか」がみえている。
勝敗への固執 芽生える不安の種
そんなわけで、僕は子どもに教えるよりも、教わることの方がはるかに多い。
特に頭を打たれたのは、幼稚園の運動会で妻の友人が撮影した一枚の写真だ。
彼女がバトンを継ぎ、スタートダッシュを切るリレーの一こまだった。
組の威信をかけて速さを競うリレーのさなか、彼女は満面の笑みを浮かべていた。
友達からの声援を浴び、本当に楽しそうで、しあわせそうな写真だった。
この写真に、僕は思わず涙した。
僕は競争の中で、いつから「楽しむプロセス」を忘れていたのだろう。
勝ち負けの結果だけに固執する自分がいるのに気づいた。
相手を負かす快楽を覚えた時から、競争の中に「不安の種」は仕込まれる。
娘も、大人に成長していく過程で、どんどん楽しむのが下手になっていくのだろうか。
僕はそれが寂しくて、もったいなくて仕方がない。