プーログ

ジャーナリストから転身 40代妻子持ちが自由に生きてみた

脱サラ後は本物の贅沢を「味方」にすべし<40代妻子持ちの体験より>

f:id:ueaki:20190219024717j:plain

こんにちは。

 

管理人のプーです。

 

プーログは、40代妻子持ちの身でありながら、2018年、おもむろに会社を辞めてしまった僕の歩みについて、リアルタイムで綴っているブログです。

 

会社を辞めて既に2年近くがたちますが、最近、「染み入るようなありがたみ」を感じることが増えました。

 

ありがたさを感じる「アンテナの感度」が良くなったと考えるべきか、「満足のハードル」が下がってしまったと捉えるべきか。

 

この際、どちらが正解かはさておき、「不満と我慢の手ごねハンバーグ」みたいな顔をしていた当時に比べると、多少なりとも精神状態がまともになったのは間違いありません。

 

いまの僕は「不安があっても不満はない」、もしくは「我慢はあっても苦はない」といった具合です。

 

これは、人生のスパイスである「贅沢」についても同じことが言えます。

 

ただ、贅沢をしたときに得られる満足の大きさは、金額の大小だけで決まるものではありません。

 

前置きが長くなりましたが、以下に詳しくまとめますので、どうか数分ほどお付き合いください。

 

 

あいまいな贅沢の基準

f:id:ueaki:20190219024956j:plain

会社を辞めて「世捨て人」のような生活を続けていると、現役時代に抱いていた「贅沢の基準」というのがいかに曖昧(あいまい)なものかが見えてきます。

 

当時、僕は仕事の流れで、幾度となく偉い方々に「高級なお店」に連れて行ってもらいました。

 

ミシュランガイドで星のつく店も、VIPが贔屓にしている銀座の高級クラブも、一通り覗かせて頂きました。

 

嫌々ながら、ほんの少しゴルフをかじった時期もあり、何度かコースを回った経験もあります。

 

大手企業や役所の幹部からすれば、いずれも単なる「社交場」に過ぎないのかもしれませんが、正直なところ、僕はこの習慣にどうしても馴染めずにいました。

 

  • 女性と交わす上っ面の会話がそんなに楽しいのか
  • 大切な余暇とお金をつぎ込むほどゴルフは楽しいものなのか
  • なぜ懐石料理ばかりなのか
  • おかずとご飯を一緒に食べたい

 

このやるせなさを例えるならば、逆立ちしながら高級ステーキを食べているような「違和感」です

 

正直に告白すると、そこには感激も、罪の意識も、満足も、満腹もありませんでした。

 

「うわー、すごいですね!」と調子のいい言葉だけがむなしく響くばかりです。

 

これは、あくまでも個人的な好みの問題といえますし、きらびやかな銀座の夜も一見さんお断りの高級料理店も、存在自体を否定するつもりはまったくありません。

 

何より、こうした社交場が仕事を円滑に進めるための「潤滑油」になることも知っています。

 

僕がここで強調したいのは、お金をかけた贅沢な場というものが、そのまま満足につながるかどうかは「別問題」という点です。

 

贅沢な行いから満足を引き出すには、お金の消費だけでは不十分というわけです

 

 

贅沢から満足を得るには…

f:id:ueaki:20190219163426j:plain

では、どうすれば贅沢から満足を効率よく引き出せるのか。

 

その前提になるのは、「いつ」「誰と」という条件です

 

たとえば、堅苦しい仕事の延長線上ではなく、大切な家族と囲む御馳走であるならば、みえる景色もガラリと変わるに違いありません。

 

それはきっと、「本当の自分」が「本当の御馳走」を食べることになるからです

 

お金で買えない贅沢も

贅沢というのは、一般的に「身の丈を超えた消費」を指します。

 

「度を超すことで得られるカタルシス」、「虚栄心を満たすための俗人的な行い」と捉える人もいるかもしれません。

 

いずれにしても贅沢は、どこまでいっても「感じるもの」です。 

 

言葉の定義の問題と言われればそれまでですが、贅沢が単なる浪費と一線を画す以上、そこに満足を伴わぬ限り、「見せかけだけの偽物」といっても過言ではありません。

 

つまり、見た目上の贅沢はお金で買えても、満足を伴う「本当の贅沢」は、お金だけを積んでも手に入らない訳です。

 

贅沢の本質は

f:id:ueaki:20190219162628j:plain

もっというと、贅沢の本質というのは、実は「身の丈を超えるところ」にあって、「消費」とは別問題なのかもしれません。

 

これが万能感の強い「お金」に絡みつくことによって、事の本質を見えにくくしているのだと思います。

 

つまり僕は、本物の贅沢というのは「度を超えたしあわせを感じるシチュエーション」のなかにあると考えるわけです。

 

子供を寝かしつける布団の中、憧れの女性の膝枕、さえない脱サラ40代妻子持ち男に届く温かい読者様からのメッセージ…。

 

僕は仕事のお付き合いとして食べた「八寸」の味は覚えていませんが、九州一周旅行で家族と食べたチキン南蛮の味はきっと一生忘れません。

 

そうした意味で、結構な収入を手放した代わりに得られた自由な時間こそが、最高の贅沢を実現する僕の宝といえるのかもしれません。

 

贅沢を敵とみなす社会で

ひるがえって、節度を重んじる日本の社会では「贅沢は敵」とみなす感覚が根強く残っているように思います。

 

独特の倫理観とでもいうのでしょうか、昔から「感謝をもって生きよ」みたいな教えもそこかしこで説かれます。

 

  • 贅沢をいうな
  • ありがたいと思え
  • 君は恵まれている
  • 感謝が足りない

 

嫌気が差した社員を諭すのにも、この教えがたびたび登場しますが、果たして今の時代、この言葉をそのまま鵜呑みにしてもいいのかどうか。

 

どうしても、僕には「妥協しろ」といっているようにしか聞こえません。 

 

少なくとも感謝というは、ある種の「気づき」をスイッチに、自然ににじみ出てくるものであり、無理矢理ひねり出せる感覚ではありません

 

不純物を取り除き、根本的なところだけを字にすると、いかに困難な注文であるかがよくわかります。 

 

  • あちらよりはまだマシ=感謝

 

むしろ贅沢な人生を追う方が「感謝の気持ち」が強まるのではないか、と思う今日この頃です。

 

実際、友達と行く300円均一の居酒屋ですら、今の僕には贅沢な幸せです。

 

この先、仮にお金持ちになったとしても、ウインナーや唐揚げなどをテーブルにずらりと並べる至福感は、きっと消えることはありません。

 

戦争を経験したお年寄りのごとくです。

 

そうした意味で、プチ貧乏の経験も捨てたものではありません。

 

あ、念のためお断りしておきますが、決して負け惜しみじゃないですよ…。

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

※なかなか更新できずに申し訳ありません。

不定期で執筆しておりますゆえ、ブックマークや読者登録などを通じて、今後もご贔屓にして頂けると幸甚です。