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ジャーナリストから転身 40代妻子持ちが自由に生きてみた

40代脱サラ男の【独り言】 お金への不安ときれいごと

脱サラにお金の不安はつきものだが、仕事を辞めてこそ大切なモノもみえてくる

 40代で妻子のある身ながらも、おもむろに会社を辞めてから半年以上が経ちました。

 

一度「世捨て人」のような身に自分を置いてみると、お金への不安に振り回されることが多くなります。

 

いまのところ、お金は僕の懐から出ていく一方です。

 

それも、とても恐ろしい勢いで噴水のように消えてなくなっていきます。

 

ただ、手段さえ選ばなければ、お金は割と簡単に手に入ることも知っています。

 

僕自身、やらないだけで具体的な手段も持っています。

 

・社会の目

・他人の評価

 

そんなものを度外視すれば、甘い儲け話は、いくらでも手の届くところに転がっているものです。

 

 

手段を選ばぬ儲け方

 

では、僕を含め、なぜ多くの善良な人たちが「手段を選ばぬお金儲け」に走らないのか。

 

そこには、「リスク」を嫌う人本来の性質があるのだと思います。

 

「逆に痛い目に合う」だとか、「裏切りがつきもの」だとか、あるいは「逮捕される」だとか、そのあたりにどうしても意識が向きがちになります。

 

ただ、本当はそれだけではありませんよね。

 

「汚れたくない」って気持ちが、どこか自分の中にありませんか?

 

社会の目も他人の評価も、リスクなんかも全部取っ払っても、最後に「きれいな心」が汚いやり方の邪魔をするのです。

 

これは、一般的な心のあり様だと思います。

 

恵まれた環境にある人は、皆、自分を汚したくないんです。

 

 

お金儲けに「良心」は邪魔?

 

といっても、僕は何も「きれいごとを克服すれば、お金儲けができる」という話を残したいわけではありません。

 

「きれいな心」という状態は、人にとっての「最高のぜいたく品」であり、「自分がどうありたいか」を示すバロメーターになることを強調したいのです。

 

自分の子どもに汚い心を植え付けたいと思う親なんて、まあいません。

それと同じです。

 

「きれいな心でいたい」なんて、恥ずかしいから言わないだけですよね。

 

社会の目、他人の評価を気にする「きれいごと」と混同するからややこしくなるだけであって、「汚い生き方を否定する心」は、厳然たる事実として自分の中に存在しています。

 

そして、社会的地位の高さやお金の持ち具合なんかで「人生の勝ち負け」を決める癖がついているからこそ、「きれいな心」の出番が少なく、その価値が低くなってしまっているのではないでしょうか。

 

僕はこの先、貧乏なままであっても、「自分のありたい姿」を人生の舞台で表現し続けることこそが、何より重要だと考えています。

 

そこに、生きる意味を見出しているからです。

 

仮に魔力のような大金で「きれいな心」を一時的に吹き飛ばしたところで、「良心」は「後悔」とともに生き続けるに違いありません。

 

きれいな心は、見えにくくなることがあっても、絶対に消えません。

 

「人生お金だけではない」ということです。

 

ようするに、僕の負け惜しみです。