無職の体験談をつづるサイトを見ていると、悲惨な状況を強調する内容ばかりが目立ちます。
正確な情報提供というより、何か別の意図が読み取れるものも少なくありません。
とはいえ、家庭持ちの場合、本当に惨めな思いをしている人が多いのも事実です。
・家族に冷たくされた
・世間に後ろ指をさされた
・友人に馬鹿にされた
・再就職先が決まらず卑屈になっていった
・会社勤めのありがたさが身に染みてわかった
・自分に生きる価値がないと感じた
こうして字にしてみると、身につまされる思いがします…。
ただ、「無職の者に生きる価値がない」というのは完全な誤りです。
無職を責め立てる人も、責め立てられて自分を見失う人も、単に近視眼的になっているだけです。
そんな自己嫌悪はまったくもって、不要です。
大丈夫です。
周囲も自分も、恐怖と古い常識に飲み込まれて「大切なもの」が見えなくなっているだけです。
社会の空気や複雑な構造はちょっと横に置いておき、物事をシンプルに捉えると「本当に大切なのは何か」が単純明快にみえてきます。
むしろ、本当に注意すべきは無職の立場の居心地が良くなってしまうことです。
無職というのは、早起とも満員電車ともスーツとも無縁となり、とても楽なのです。
バイトと妻の収入で何とかなってしまう分、「怠慢地獄」に陥りかねません。
こうなると、全てが面倒になり、なかなか脱するのが難しくなるものと思われます。
今回は、40代妻子持ちである僕の体験談を含めて、そのあたりを解説してまいります。
肩身の狭い無職の立場
脱サラ後、いったん無職の身になると、肩身の狭い思いをすることも少なくありません。
いまだに母は僕を罪人のように扱います。
娘とうまい棒の取り合いをしているだけで、「あんたに食べる権利はない」とすごい剣幕で叱られたりもします。
別に子どもとジャレているだけなのですが、駄菓子を食べる権利がはく奪されるのも妙な気持ちです。
家族の将来を顧みず、無責任に仕事を辞めて、へらへらしているのが許せないのでしょう。
ただ、家族の幸せそうな姿に怒りがこみあげてくるなんて、どう考えても異常です。
もっとも「孫のことを思うと」という理屈なのでしょうが、「仕事を続けていれば明るい未来が保証される」などということは、絶対にありえないのです。
この手の怒りは、「思い込み」や「思考放棄」からくる不安の産物に過ぎません。
そして、いまだに根絶されない古い社会常識の一部ともいえます。
甘いリスク計算
人はリスクに対してとても寛容な生き物です。
株の「損切り」ができない心理と同じです。
・苦しくても乗り切れるだろう。
・何とか頑張ってくれるだろう。
残念ながら、日本の自殺死亡率は世界でワースト6位に位置します。
そんな事実を知ったところで、「うちは大丈夫」と高を括るに違いありません。
それは、リスクに寛容というより、むしろ、心や体が壊れる直前まで人を酷使しようとする、第三者のエゴです。
経済を優先するための「少しの犠牲」も、家族にとっては「すべて」であることを、忘れてしまっているのです。
「人の価値」と「社会的価値」
僕たちみたいな無職の人間は、古い世間の目から見ると、どうやら「社会的価値」が低いところに組み込まれているようです。
ただし、あくまでもバイアスのかかった人からみた「社会的価値」です。
いずれにしても、「人が生きる価値」ではないわけです。
「社会的価値」と「人が生きる価値」、どちらが重いのか。
無職の身を責める人も、卑屈になる人も、図式にすると、こういうことになっています。
社会的価値>生きる価値
つまり、「宝」と「宝箱」の値打ちが逆転しているわけです。
いわずもがな、人にとって、生きることが価値そのものなのです。
社会的価値なんて、その器に過ぎません。
人生はプロセス
とはいえ、無職でいると、焦りや恐怖はなかなか消えないかもしれません。
「お金がほしい」
「安定したい」
「安心させたい」
退職金が底をついた僕だってそうです。
ただ、忘れてならないのは、人生はプロセスということです。
人は自由です。
どう生きようが、何をしようが、罰せられることはあっても、真に誰にも止める権利はないのです。
未来に続く道は無数に用意されています。
足かせのない人にとって、どれを選ぶかは完全に自由です。
ももクロの追っかけに命を懸けるもよし。
キャンピングカーで日本をめぐる夢を追うもよし。
海外に移住するもよし。
農家になるもよし。
在宅ビジネスで生計を立てるもよし。
決してはき違えてはいけません。
食べていくために生きるのではなく、生きるために食べていくのです。
お金も生きるための目的ではなく、手段というわけです。
ありたい自己の姿を描く「夢の形」が、人生の昇るべき階段を示してくれるはずです。
注すべきは怠慢地獄
ただ無職も慣れてしまうと、 余りの楽さに行動力が鈍ってきます。
僕も一度、足をはまらせそうになりましたが、パチンコの犯行現場を義理の母に押さえられ、窮地を脱した経験があります(詳しくはこちら)。
無職の快適さになれると「社会から隔絶されたぬるいお風呂」から出られない状態になります。
昼まで寝ていようが、一日中ゲームをしようが、漫画を読もうが、DVDを見ようが、誰にも叱られない。
自己管理ができなくなれば、もう終わりです。
物事を先送りする癖がついている人は、注意が必要です。
とはいえ、自己嫌悪に陥る必要はありません。
別に、いろんなことから逃げてもいいんです。
人間なんてみんな弱いんです。
むしろ、逃げることをきちんと認めるべきです。
そのうえで「あんまり逃げないように努める」のが、妥当な線だと思います。
「軽蔑されながら一生ダラダラ家で過ごす刑」は、地獄に違いありません。
そうした意味で、無職にとっての真の敵は、おのれの卑屈な気持ちでなく、だらしなさを呼ぶ心なのかもしれませんね。
まとめ
- 無職の子を持つ一般的な親は冷たい態度をとる
- 偏見はしあわせの本質を曇らせる
- 幸せの形が見極められるのは自分自身だけ
- 人が生きる価値>人の社会的価値
- 人にあるのは権利のみ
- 食べていくために生きるのではなく、生きるために食べていくのが正解
- 逃げる行為を素直に受け入れ、あまり逃げないように努めるのがポイント
- 怠慢地獄こそ真の敵
いかがでしたでしょうか。
体験者ならではの理解をもとに、まとめたつもりです。
決して自己弁護ではありません。
無職の方は、お互い頑張りましょう…。
長文をお読みいただき、ありがとうございました。