プーログ

ジャーナリストから転身 40代妻子持ちが自由な生き方を提案

脱サラ後は本物の贅沢を「味方」にすべし<40代妻子持ちの体験より>

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こんにちは。

 

管理人のプーです。

 

プーログは、40代妻子持ちの身でありながら、2018年、おもむろに会社を辞めてしまった僕の歩みについて、リアルタイムで綴っているブログです。

 

会社を辞めて既に2年近くがたちますが、最近、「染み入るようなありがたみ」を感じることが増えました。

 

ありがたさを感じる「アンテナの感度」が良くなったと考えるべきか、「満足のハードル」が下がってしまったと捉えるべきか。

 

この際、どちらが正解かはさておき、「不満と我慢の手ごねハンバーグ」みたいな顔をしていた当時に比べると、多少なりとも精神状態がまともになったのは間違いありません。

 

いまの僕は「不安があっても不満はない」、もしくは「我慢はあっても苦はない」といった具合です。

 

これは、人生のスパイスである「贅沢」についても同じことが言えます。

 

ただ、贅沢をしたときに得られる満足の大きさは、金額の大小だけで決まるものではありません。

 

前置きが長くなりましたが、以下に詳しくまとめますので、どうか数分ほどお付き合いください。

 

 

あいまいな贅沢の基準

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会社を辞めて「世捨て人」のような生活を続けていると、現役時代に抱いていた「贅沢の基準」というのがいかに曖昧(あいまい)なものかが見えてきます。

 

当時、僕は仕事の流れで、幾度となく偉い方々に「高級なお店」に連れて行ってもらいました。

 

ミシュランガイドで星のつく店も、VIPが贔屓にしている銀座の高級クラブも、一通り覗かせて頂きました。

 

嫌々ながら、ほんの少しゴルフをかじった時期もあり、何度かコースを回った経験もあります。

 

大手企業や役所の幹部からすれば、いずれも単なる「社交場」に過ぎないのかもしれませんが、正直なところ、僕はこの習慣にどうしても馴染めずにいました。

 

  • 女性と交わす上っ面の会話がそんなに楽しいのか
  • 大切な余暇とお金をつぎ込むほどゴルフは楽しいものなのか
  • なぜ懐石料理ばかりなのか
  • おかずとご飯を一緒に食べたい

 

このやるせなさを例えるならば、逆立ちしながら高級ステーキを食べているような「違和感」です

 

正直に告白すると、そこには感激も、罪の意識も、満足も、満腹もありませんでした。

 

「うわー、すごいですね!」と調子のいい言葉だけがむなしく響くばかりです。

 

これは、あくまでも個人的な好みの問題といえますし、きらびやかな銀座の夜も一見さんお断りの高級料理店も、存在自体を否定するつもりはまったくありません。

 

何より、こうした社交場が仕事を円滑に進めるための「潤滑油」になることも知っています。

 

僕がここで強調したいのは、お金をかけた贅沢な場というものが、そのまま満足につながるかどうかは「別問題」という点です。

 

贅沢な行いから満足を引き出すには、お金の消費だけでは不十分というわけです

 

 

贅沢から満足を得るには…

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では、どうすれば贅沢から満足を効率よく引き出せるのか。

 

その前提になるのは、「いつ」「誰と」という条件です

 

たとえば、堅苦しい仕事の延長線上ではなく、大切な家族と囲む御馳走であるならば、みえる景色もガラリと変わるに違いありません。

 

それはきっと、「本当の自分」が「本当の御馳走」を食べることになるからです

 

お金で買えない贅沢も

贅沢というのは、一般的に「身の丈を超えた消費」を指します。

 

「度を超すことで得られるカタルシス」、「虚栄心を満たすための俗人的な行い」と捉える人もいるかもしれません。

 

いずれにしても贅沢は、どこまでいっても「感じるもの」です。 

 

言葉の定義の問題と言われればそれまでですが、贅沢が単なる浪費と一線を画す以上、そこに満足を伴わぬ限り、「見せかけだけの偽物」といっても過言ではありません。

 

つまり、見た目上の贅沢はお金で買えても、満足を伴う「本当の贅沢」は、お金だけを積んでも手に入らない訳です。

 

贅沢の本質は

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もっというと、贅沢の本質というのは、実は「身の丈を超えるところ」にあって、「消費」とは別問題なのかもしれません。

 

これが万能感の強い「お金」に絡みつくことによって、事の本質を見えにくくしているのだと思います。

 

つまり僕は、本物の贅沢というのは「度を超えたしあわせを感じるシチュエーション」のなかにあると考えるわけです。

 

子供を寝かしつける布団の中、憧れの女性の膝枕、さえない脱サラ40代妻子持ち男に届く温かい読者様からのメッセージ…。

 

僕は仕事のお付き合いとして食べた「八寸」の味は覚えていませんが、九州一周旅行で家族と食べたチキン南蛮の味はきっと一生忘れません。

 

そうした意味で、結構な収入を手放した代わりに得られた自由な時間こそが、最高の贅沢を実現する僕の宝といえるのかもしれません。

 

贅沢を敵とみなす社会で

ひるがえって、節度を重んじる日本の社会では「贅沢は敵」とみなす感覚が根強く残っているように思います。

 

独特の倫理観とでもいうのでしょうか、昔から「感謝をもって生きよ」みたいな教えもそこかしこで説かれます。

 

  • 贅沢をいうな
  • ありがたいと思え
  • 君は恵まれている
  • 感謝が足りない

 

嫌気が差した社員を諭すのにも、この教えがたびたび登場しますが、果たして今の時代、この言葉をそのまま鵜呑みにしてもいいのかどうか。

 

どうしても、僕には「妥協しろ」といっているようにしか聞こえません。 

 

少なくとも感謝というは、ある種の「気づき」をスイッチに、自然ににじみ出てくるものであり、無理矢理ひねり出せる感覚ではありません

 

不純物を取り除き、根本的なところだけを字にすると、いかに困難な注文であるかがよくわかります。 

 

  • あちらよりはまだマシ=感謝

 

むしろ贅沢な人生を追う方が「感謝の気持ち」が強まるのではないか、と思う今日この頃です。

 

実際、友達と行く300円均一の居酒屋ですら、今の僕には贅沢な幸せです。

 

この先、仮にお金持ちになったとしても、ウインナーや唐揚げなどをテーブルにずらりと並べる至福感は、きっと消えることはありません。

 

戦争を経験したお年寄りのごとくです。

 

そうした意味で、プチ貧乏の経験も捨てたものではありません。

 

あ、念のためお断りしておきますが、決して負け惜しみじゃないですよ…。

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

※なかなか更新できずに申し訳ありません。

不定期で執筆しておりますゆえ、ブックマークや読者登録などを通じて、今後もご贔屓にして頂けると幸甚です。

 

 

40代妻子持ち脱サラ男のいま ブロガー目指すも「微妙な感じ」に…

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こんにちは。

 

管理人のプーです。

 

大変ご無沙汰してしまい、申し訳ありません。

 

読者の方から涙が出るほどありがたいコメントを頂きましたので、少し経過報告をさせて頂くことにしました。

 

「会社を辞めても何とかなる事実」を身をもって証明したうえで、意気揚々とプーログを再開したかったのですが、正直なところ、まだまだ微妙な感じです…。

 

中途半端なご報告になってしまうかもしれませんが、このあたりに、無謀な退職のリアルをつづるプーログの生々しさがあるものとして、どうかお許しください

 

月間20万PVと週給40円

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この半年間、僕はまったく別ジャンルのブログ(神社・仏閣・パワスポ系)に全身全霊を傾け、日々悶絶していました。

 

まったく鳴かず飛ばずの状態が延々続いていましたが、「正月特需」の影響が加わって、パワスポブログは今月、おかげさまで月間20万PV(ページビュー)に届きました。

 

 

この間、ドイツ製の方位磁石と中国製の地図を片手に、まだ見ぬオアシスを目指して砂漠の中を独り歩いている心境でした。

 

悲しいかな、ブログという新天地では記者歴20年のキャリアは何の役にも立ちません。

 

現地取材への強いこだわりがたたって、記事数は一向に増えず、アクセスするのは自分のみ。

 

誰も僕の「力作」を読んではくれません。

 

  • 本当にこのやり方でいいのかな
  • 読者ニーズからずれているのかしら
  • ひょっとして記事がつまらないんじゃ…

 

そんな疑念を抱きつつ、僕は2か月ほど「週給40円」で働いていました。

 

こんな割の悪い仕事、誰が続けるというのでしょうか…。

 

実際、ブロガーを目指す人の大半が途中で脱落していくそうです。

 

 

収益化は道半ば

プロのブロガーに言わせると、記事数が100記事程度で20万PVのアクセスが集まるというのは、そこそこすごい事だそうです。

 

やっと光が見えてきました。

 

ただ、肝心の「収益化」という点は、ほぼ未着手に等しい状態です

 

Googleの自動広告を貼らせてもらっているだけで、アフィリエイトにはまだ一切手を付けていません。

 

さすがに週給40円の状況からは脱しましたが、「自力で安定した収入源を得る」という目標への到達は、まだまだ道半ばといったところです。

 

 

開き直りの中に恐怖も

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最近気づいたのですが、ひとつのことに専念していると、いらぬ不安は薄れるようです。

 

ある種の開き直りが生まれるのでしょうか。

 

全身全霊と言いながらも、最近気が緩みがちになっていて、「ちょっと休憩」とレトロゲームや海外ドラマにうつつを抜かすこともしばしばです。

 

スーパーファミコンの名作ソフト「空想科学世界ガリバーボーイ」の攻略に丸2日間費やしてしまったときは、強烈な自己嫌悪に陥りました。

 

冗談を抜きに、不安を通り越して「身の毛もよだつほどの恐怖」を感じました。

 

 

お給料もボーナスも、もう僕の元にはやってこないのです。

 

退職から1年半が過ぎたいまも、自分でエサを取りにいかなくてはならないリアルな現実に、尻込みしそうになることがあります。

 

 

続ける力

継続は力なりというのは、重い言葉です。

 

最近、「禁ゲームの誓い」を破りまくっている僕ですが、半年ブログに費やした時間は無駄ではなかったと思います。

 

中途半端なページビュー数でも、小遣い程度の広告収入でもなく、実践を通じて得た「ブログの運営ノウハウ」こそが、本当の財産に違いありません。

 

「いいから結果を出せ」

 

相変わらず両親は、サラリーマンを途中下車した僕に辛く当たりますが、図星を突いてくる分、真摯に耳を傾けるべきありがたいお言葉なのかもしれません。

 

 

もはや「古巣への復帰」という退路は完全に絶たれました。

 

支出を絞り込んで日々の生活をしのぐ僕の目の前にあるのは、両親の叱咤、家族との時間、希望と不安、焦燥と堕落などがごちゃ混ぜになったカオスです。

 

ただ、そこに「悔い」や「後悔」などの感情は一片もありません。

 

さきほど「身の毛もよだつほどの恐怖を感じることがある」と書きましたが、自由な生き方に「計り知れないほどの歓喜を覚える瞬間がある」のも確かです。

 

収益という意味での結果を出すには、もう少し時間がかかるかもしれませんが、納得がいくまで続けていくつもりです。

 

吉報をご報告できるよう、頑張ってまいります。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

【40代妻子持ち脱サラ】古い家は惨めなの!?大家族特番にみる世間の目

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大家族のエネルギッシュな姿を追うテレビ朝日の特番「奮闘ニッポン!24時」を見ていて、何となく違和感を覚えました。

 

とても面白かったのですが、何でしょう、この「心のイケない部分」をくすぐられるような、モヤモヤとした感じ…。

 

同シリーズのファンいわく、「大家族ならではの雑多でパワフルな姿」が毎回楽しみで、家族間での協力や子ども同士の喧嘩の中に「懐かしい昭和の団らん」を見つけることができるのだそうです。

 

僕はあまりこの手の番組をみたことがなかったのですが、本当に作り手の意図はそこにあるのでしょうか…。

 

ギリギリの生活感までは分かるとして、「母親のタトゥー」をさりげなく映してみたり、部屋の散らかり具合を強調してみたり…。

 

このあたりを編集であえてカットしないのは、作り手の意図と視聴者のニーズがおおむね合致しているからかもしれません。

 

そもそも、テレビ番組に「意味のないシーン」が組み込まれることなど絶対にありえず、それが「無用のリスクを負う映像」となると、なおさらです。

 

と、大家族シリーズに注がれる「隠れた好奇心」について、ひねた態度でつらつらと書いてみましたが、今回、僕はテレビの評論をしたいわけではありません。

 

僕が驚いたのは、番組の中で揶揄された「築40年の貸家」の扱いについてです。

 

 築40年の一軒家

番組は、熊本地震に被災した11人家族の「尾崎家」に密着したもので、仮設住宅からの退去のリミットと、新たな子供の出産が重なり、このドタバタを一家一丸で乗り切るといった内容でした。

 

退去まであと1か月に迫ったところで、尾崎一家が掘り当てたのは築40年の4LDKの一軒家。

 

家賃6万円。

 

「む、いいとこ見つけたな」という僕の感想とは裏腹に、テレビの中の小さな子供たちは口々に「ボロいから嫌だ」「お化けがでる」と新居をこき下ろし、ナレーションまで「随分懐かしい雰囲気の家」だと揶揄しています。

 

正直、仰天しました。

 

大家族シリーズの人気を支える裏設定から察するに、世間相場からすると、昭和の香りが漂う築40年の一軒家でさえ「好奇の目」を引く対象になるのだと…。

 

タイル敷のトイレにひび割れだらけの風呂の壁。

 

「え、ひょっとして我が家もヤバいんじゃ…」。

 

 住めば都

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 僕はこれまで、東京23区内から労働者の町までいろんなところに住んできましたが、常に「住めば都」と感じていました。

 

新築だろうがボロアパートだろが、不満に思ったことはかつて一度もありません。

 

いま暮らす 2LDKの我が家も、ちょっと狭い程度で特に問題はなく、近所付き合いも至って良好です。

 

「住めば都」という感覚。

 

そこにあるのは、比較の物差しではなく、自分の中に根差す絶対値です。

 

ただ、世間一般の尺度は、ひょっとすると少し違うのかもしれません。

 

大きな家に羨望の眼差しを向け、小さな家には逆の感情を抱く――。

 

僕自身、世間体がほとんど気にならなくなった反動で、そのあたりがどうも視界不良になっていたようです。

 

自分の居場所

 そんな目で見ると、次男はともかく、可哀想なのは長女です。

 

とくに 彼女の一番の仲良しは、お洒落な庭付きの一軒家に住む男の子。

 

我が家と比べると、邸宅と犬小屋ぐらいの開きがあるかもしれません。

 

ただ娘は、いまの住まいを嫌うどころか「愛着」すら感じています。

 

最初のうちは、「古い」だの「階段が怖い」だの子供なりに難色を示していましたが、いつしか家族との温かい思い出を紡ぐ「自分の居場所」になっていたわけです。

 

僕自身、仮に宝くじが当たったところで、しばらく引っ越す気はありません。

 

可愛い盛りの子どもと過ごすのに必要なのは、愛情と時間とちょっとのお金であって、きっと、家のクオリティはあまり関係がないのでしょう。

 

 むしろ娘には、家族と自分の家を大切に思う気持ちを忘れないでいてほしいと切に願うところです。

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

会社を辞める決断 一番大事な判断基準と「盲点」 脱サラ体験者談

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会社を辞める決断がどうしてもできない――。

 

長年続けた会社を辞める決断には、相当の覚悟とエネルギーが必要です。

 

脱サラを志す人はなおさらで、安定した収入源も、社会とのつながりも、染みついたサラリーマン思考も全部リセットして、一から組み立て直す必要があるためです。

 

この場合、仕事で培ったスキルを次につなぐ方法が一番手堅いのかもしれませんが、軌道に乗るまでは、大半の人が相当苦労するのも確かです。

 

何より、成功する保証などどこにもありませんし、失敗してもっと惨めになる可能性だって十分にあります。

 

「仕事をやめたい病」にかかると、大方そんなことをモヤモヤ考えながら、葛藤の渦をさまよってしまいます。

 

ただ、そうしたモヤモヤの中で、本当に大事なことの見極めができているでしょうか。

 

つまり、確かな判断材料がないままに、いきなり自分に「重い決断」を迫ったところで、迷いは深まるばかりです。

 

そんなときに見切り発車をしてしまうと、後悔の種を残すことになるかもしれません。

 

今回のプーログは、仕事を辞める決断ができず、葛藤のさなかにある人たちに向けて、「一番重要な判断基準」と「思考の盲点」についてまとめました。

 

きっと3分程度で読めますので、どうか最後までお付き合いください。

 

 

 

「仕事辞めたい病」と現実のリスク

ご挨拶が遅れました。

 

管理人のプーです。

 

僕は20年以上続けた新聞社をおもむろに辞めてしまった40代妻子持ちの無職です。

 

2017年に退職し、自力で収入源を確立する試みを続けています。

 

いまは期待できる状況でも、絶望的な状態でもありませんが、会社を辞める決断を下したことに一切後悔はないと言い切れます。

 

 

さて、今回のテーマ「仕事を辞める決断」についてですが、ようするに、新たな人生への決断を鈍らせている原因は、大方の場合、現実のリスクです。

 

  • 失敗して後悔したくない
  • 嫌なことから逃げるとロクなことがない
  • 脱サラに失敗すると惨めな末路が待つ
  • 世間体を著しく損なう

 

いや、確かにそうかもしれません…。

 

実際、退職を迷う人の中には、そんな心配を抱く方も結構いらっしゃるのではないでしょうか。

 

ただし、実はこれ、すべて「辞められない理由」ではありません。

 

「辞めない理由」です。

 

仕事を辞める「損得の天秤」

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長年大人を続けていると、価値判断の軸足が「損得」に縛られてしまい、ものごとを「比較」でとらえる癖がつきます。

 

  • どっちが得か
  • どっちのリスクが小さいか
  • どっちのうまみが大きいか

 

こうした比較の物差しだけに頼ってものごとを判断すると、どうしても大切なものを見落としがちになります。

 

失ってみて、はじめてその大切さに気付くものも少なくありません。

 

  • 生きがい
  • 時間
  • 家族との絆

 

…極端過ぎますか?

 

いずれにしても、大概それは、損得の天秤や比較の物差しから漏れたものです。

 

欲しいものと必要なもの

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では、損得の天秤から漏れたものとは何でしょうか。

 

これは、自分にとって「必要なもの」です。

 

逆に、比較の物差しで測っているものとは何か。

 

それは、得てして「欲しいもの」ばかりです。

 

つまり、大きな決断に踏み切る際には、まず「必要なもの」と「欲しいもの」の区別をつけねばなりません。

 

ここが「肝」です。

 

 

引き算で求める「幸せの形」

この「必要なもの」と「欲しいもの」の見極めこそが、葛藤のループから抜け出す第一歩であり、「本当の自分の思い」をあぶり出す、とても重要な儀式になります。

 

突き詰めると、「欲しいもの」などたかが知れています。

 

自分にとって「必要なもの」を煎じ詰めていくことが、人生の大きな決断を下す前に行うべき作業だと僕は断言します。

 

従って、脱サラして成功したカッコいい人の話も、会社にしがみついて必死で家族を守る人の雄姿も、関係ありません。

 

自分が本当にしあわせだと思う形が答えです。

 

幸せの形は、欲しいものを「足し算」していったところで見つかりません。

 

余計なものが増え、必要なものが見えなくなっていくだけです。

 

不要なものをどんどん捨てていくのが近道です

 

 

仕事を辞めるリスクへの恐怖

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とはいえ、不要な物の中には、「捨てるのが無茶苦茶惜しいもの」も含まれているに違いありません。

 

例えば、「安定した収入源」などがこれに当たります。

 

つまり、捨てるとリスクを負うものです。

 

この恐怖を克服するのは、とても難しいように思われるかもしれませんが、本当に必要なものは、リスクを冒してでも取りに行くのが筋です。

 

たとえば、家族を救うためなら、命を懸けて断崖絶壁に生える仙人の薬草を取りに行く勇気ぐらい、誰にでもあるのではないでしょうか。

 

もっと言えば、本当に必要なものを取りにいくのに、リスクはあまり関係ありません。

 

 どうしても危険を冒せないのであれば、どうかその直感を信じてください。

 

自分にとってのお宝は、自由な新天地なんかではなく、案外、ポケットの中にあるのかもしれません。

 

 

辞めたいけど踏ん切りが…

ただ、頭では分かっていても、染みついた常識の壁を越えて行動を起こすのは、すごく難しいものです。

 

「辞める決意は固いけど…」と足がすくむのも当然です。

 

そんなとき、ひとつの解決策として「全託」という手段があります。

 

退職届を出して、あとはもう運命に委ねてしまう――。

 

この方法は決しておすすめはできませんが、僕がとった行動はかなりこれに近かったように思います。

 

ただし、仕事を辞める人は準備だけは必ずしておいてください

 

いつだったか記事にもしましたが、貯金は必須です。

 

 

長文ながらも、最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。

 

【認めてほしい】苦しみを和らげる術<40代無職の涙>

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「認めてもらいたい気持ち」が人を苦しめる――。

 

「認められたい」という思いは、濃淡の差こそあれ、誰しもが抱える欲求です。

 

社内外での競争にさらされるサラリーマンはもとより、漫画家や陶芸家など「認められなければ生活が成り立たない」という切実な世界に身を置く方ならば、なおさらです。

 

  • 親に認められたい
  • 会社に認められたい
  • 社会に認められたい
  • 異性に認められたい

 

大企業のボードメンバーから僕のような無職の人間に至るまで、この国は「認められたい病」にあえぐ人の苦しみであふれかえっているのではないでしょうか。

 

この話題に関連し、きょう、ある出来事を引き金に、若かりし時代の記憶がよみがえりました。

 

僕が簡易宿泊所の立ち並ぶ街「あいりん地区」のそばで暮らしていたときの思い出です

 

 

今回のプーログは、そんなかつての記憶をたどりながら、「認められない苦しみ」をテーマに、「認める大切さ」についてまとめました。

 

※文中、不適切な表現があるかもしれませんが、弱い立場の人たちを蔑視する内容でもなければ、社会正義や道徳を強調する中身でもありませんので、安心してお読みください。

 

 

認めてほしい-思い出のトリガー-

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あらためまして。

 

管理人のプーです。

 

僕は20年以上続けた新聞社をおもむろに辞めてしまった40代妻子持ちの無職です。

 

2017年の退職から現在に至るまで、自力で収入源を確立する試みを続けています。

 

一家の生活を奥さんの収入に頼る情けない状況に置かれていますが、これを打破すべく、試行錯誤をあれこれ繰り返しています。

 

 

そんないたたまれない立場の僕ですが、実はきのう近所のTSUTAYAで、人目を気にせず、軽やかに踊る初老の女性を見かけました。

 

ひらひらのピンクのドレスでめかし込み、左手に水玉模様の傘、両耳にヘッドホンを装着したような、奇抜な格好です。

 

心が自由になったのか、制御がきかなくなったのかは分かりません。

 

その珍妙ないでたちと軽快なステップは、奇異の目にさらされていました。

 

歩行者は少し離れたところで、侮蔑や哀れみを含ませた眼差しを向けながら、決まってヒソヒソ話を始めます。

 

もちろん僕もギョッとした口ですが、女性のダンスをチラ見する中で、大阪・あいりん地区で暮らしていた時代の記憶がよみがえってきました。

 

そこにあったのは、ある初老の女性が抱える深い孤独です――。

 

 

認めてほしい-仕事を干された過去-

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かくいう僕も、若かりし頃、「認められたい病」を大噴火させた経験があります。

 

風邪をひいて会社を休んでいたところ、当時担当していた業界で突然大きな記者会見が開かれ、それを「テレビで知ることになった」ときの話です。

 

記者にとってのスタートダッシュは、大きな意味を持ちます。

 

とくに不祥事にまつわる大きなニュースは長期戦になりやすく、社内でイニシアチブを握る上でも「最初に情報を押さえた者が勝つ」ところがあるためです。

 

ところが僕は、この大事な局面で躓いてしまい、紆余曲折の末、ついには上司に仕事を干されてしまいます。

 

汚名返上を狙う独自取材での空回りは、取材先の怒髪天を突き、心身ともにヘトヘトに。

 

それでも僕は、食らいつき続けました。

 

この苦い出来事は、最終的に「上司に褒められる形」で決着がついたのですが、恐怖から解放される安堵感と達成感は、僕の脳に「認められるエクスタシーの種」を植えこむ結果になりました

 

こんな感じで、サラリーマンは「競走馬」に仕立て上げられていくのかもしれません。

 

 

認めてほしい-青空カラオケ

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当時の僕は会社に命じられ、大阪の支局に勤務していたのですが、仮のすみかに選んだ場所は大阪市西成区、「あいりん地区」と呼ばれる労働者の街のすぐそばです。

 

路面電車のホームを段ボールハウスが占拠している光景に衝撃を受け、もっと深く「あいりん地区」の実情を知りたくなったのが理由です。

 

この地区を含む周囲一帯を自転車でぐるぐるめぐり、いろんな人と話をするのが休日の楽しみになっていました。

 

本当にディープな街で、時計の針が昭和の時代に止まったようなイメージです

 

町全体を覆う怪しい犯罪の香りとともに、労働者からは、癒えない傷に染みつく哀愁と日々を生き抜くたくましさが漂っていました。

 

そんな特殊な土地柄に、この地域独特の文化が花を咲かせていました。

 

なかでもとくに僕の興味を引いたのは、「屋台カラオケ」です。

 

通称「青空カラオケ」。

 

そして、カラオケの屋台を前に、薄い笑みを浮かべながら踊っていた人こそが、僕の思い出の中にいる「初老の女性」に他なりません。

 

 

認めてほしい-初老の女性-

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天王寺動物園に面した小道にいくつもの屋台が軒を連ね、住民らが野外でカラオケに興じる光景は、世界広しといえど、きっとここだけです。

 

青空の下で歌う屋台カラオケには、底抜けの明るさとそこはかとないペーソスが共存していて、これぞ西成文化の真骨頂といえるのかもしれません。

 

僕は、「驚異の投資術」など怪しいフレーズを名刺に刻む人たちと飲めないお酒を酌み交わし、実際にマイクを取って、壁のない空間でカラオケを楽しみました。

 

そんな屋台がひしめく小道のど真ん中で、初老の女性がずっと踊りを披露しています。

 

「…このおばちゃん、何をしているのですか?」

 

驚異の投資術」のスキルを持つ男性客に聞いていみると、どうやら趣味で遊んでいるわけではありません。

 

「おひねりを求めて、朝からずっと踊っている」のだといいます。

 

実際に、チップを手渡しているお客もいました。

 

ただ、それは洗練された舞踊のたぐいではなく、僕からすると遊びの踊りにしか見えません。

 

それでも体験をモットーにしている以上、ここはおひねりを出すしかないと、僕は財布から千円札を取り出して、この女性に手渡しました。

 

 

認めてほしい-おひねり-

活動の軸を体験に据えていたのも事実ですが、正直なところ、面白半分に手渡したおひねりです。

 

常連さんが手渡すおひねりとの違いは、「若い世代のチップ」だったということでしょうか。

 

この女性は両手でお札をぎゅっと握りしめ、「ありがとう、ありがとうございます」と涙を流されました。

 

家族と生き別れ、路上生活に近い状況に置かれていたこの女性は、身を焦がすような承認欲求を孤独の内に秘めていたに違いありません。

 

プライバシーの関係もありますので、これ以上深くは書けませんが、僕は自分の傲慢さを深く恥じました。

 

 

事実上、大阪市もずっと黙認してきた「青空カラオケ」でしたが、市長選のタイミングで「強制撤去」の憂き目にあい、熟した文化ごと根こそぎ刈り取られてしまいました。

 

 

認めてほしい-2つの出どころ-

僕は「認めてもらいたい」と思う気持ちの出どころはは、大きく2つあるのだと思います。

 

ひとつは、競争の中に芽吹く「エクスタシー」。

 

もう一つは孤独です。

 

優位な立ち位置を追えば追うほど、また、社会や家族とのつながりを求めれば求めるほど、その乾きは強くなるのかもしれません。

 

どちらも、人の宿命に組み込まれた感情となるだけに、器用に隠すことはできても、本質的には薄めるのが難しい欲望なのかもしれません。

 

そんな逃れられない渇きを潤すヒントは、実は「認めてもらう」の逆で、「みんなを認めること」にあるのではないでしょうか。

 

 

認めてほしい-認めることから-

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僕の勤めた古巣には、自己承認欲を空回りさせるがあまり、自爆を続ける先輩がいました。

 

人の手柄を横取りし、とにかく言い訳が上手で、周囲から煙たがられていた人です。

 

そんな嫌われ者の先輩ですが、実はこの人、骨髄バンクにドナー登録をしていて、人の命を救った経験があります。

 

僕はその話を本人から聞かされた時、「先輩のその本質はそこにあるので、どうか見誤らないでくれ」といった感想を伝えると、涙を浮かべていました。

 

 

人を認め続けていると、認められない苦しみも、なぜがずっと楽になります。

 

それは、自分を含めて、人間の価値を測る尺度が「比較値」から「絶対値」の側に振れるからなのかもしれません。

 

ただ、生活のかかった「認められたい病」だけは、感情の出どころが違っているせいで、なかなかどうにもなりません。

 

世の中、やはり難しいですね…。

 

 

長文ながらも、最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

仕事を辞める=「逃げる」ではなく「克服する」<脱サラ体験者>

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仕事を辞めるのは、逃げなのか――。

 

こんにちは。

 

管理人のプーです。

 

いきなり本題から切り出しましたが、結論からいうと、仕事を辞めるのは100%、逃げではありません

 

突き詰めると、それは「選択」です。

 

そもそも、仕事を辞めるのには、莫大なエネルギーが必要になります。

 

「仕事でご縁を頂いた人たちとのつながり」や「染みついた古い常識」、さらには「安定した収入源」まで断ち切る勇気が必要になるからです。

 

実際に僕は、何の当てもなく40代妻子持ちの身でありながら脱サラしました。

 

その経験からすれば、仕事を辞めるというのは「逃げる」というより、いろいろなことを「克服する」ことだと言えます。

 

僕はとてつもない不安と恐怖に打ち勝ち、すべての責任を「家族で負う」自由な人生を手にしました。

 

ひょっとすると、子供からすれば「たまったものではない」のかもしれませんが、僕は「挑戦者としての生き様」をみせることでプラスに持っていきたいと思っています。

 

 

仕事を辞める前には必ず脅される

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「仕事をやめたい」と人に相談すると、多くの場合、脅しが入ります。

 

  • 一家が路頭に迷う
  • 世間は冷たい
  • 子供がかわいそう
  • 見通しが甘い
  • 老後をどうする気か
  • 世間体が保てない
  • みじめな人生を歩むことになる

 

仕事を辞める前は結構真に受けていましたが、今だからわかります。

 

これらはすべて、単なる「脱サラ未経験者の予想」に過ぎません。

 

ドロップアウトすれば終わりという恐怖を社会全体で共有しているからこそ、「仕事を辞めるのは逃げる行為と同じ」という風に誤解されてしまうわけです。

 

不登校でも卒業できる事実

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これは、不登校の子供を説得する構図とまったく同じです。

 

不登校の子供たちの苦しみを増幅させる社会の力学も、苦悩するサラリーマンのそれに重なります。

 

 

不登校新聞」というネット上の媒体で記者を務める人がいます。

 

 

この人は、自身が学校に行けなくなった時に「人生終わった」と思ったそうです。

 

残酷な話ですが、周囲もきっと、そのように吹き込んだに違いありません。

 

「楽になりたい」衝動に背中を押され、自ら命を絶つ誘惑さえ感じるようになったと言います。

 

 

そんなに嫌なら、別に学校なんて行かなくてもいいんです。

 

というのも実は、小中学校に1日たりとも通わなくても、卒業できるからです。

 

 

つまり出席日数と卒業は無関係で、不登校の子供が「人生が終わる」ことなど、そもそもありえないわけです

 

僕は、この人の記事を読むまで、そんな事実を知りませんでした。

 

いかに社会が誤解で塗り固められているか、改めて痛感した次第です。

 

 実際、「不登校新聞」の記者の方も、不登校のまま「ごく普通の社会人」になったそうです。

 

 

何事も続けることで、「人生の大きな財産」が得られるのは周知の事実です。

 

ただ、続けない選択をすることで「失わずに済んだ財産」があるのも確かではないでしょうか。

 

本当の「逃げる」とは…

だからと言って、プーは安易な離職をおすすめするわけではありません。

 

会社にしがみつくのも、それなりにメリットがありますし、脱サラすると仕事はすべて一人でやらねばならず、結構大変な時もあります。

 

それでも、死にたいと思うぐらいなら、是非とも仕事を辞める恐怖を克服してください。

 

 

繰り返しになりますが、「仕事を辞める」というのは、逃げではありません。

 

これは、あくまでも選択です。

 

本当の意味での逃げというのは、たぶん「命を絶って楽になる」ことではないでしょうか。

 

そんな「最悪の選択」をしたときに、絶望のどん底に突き落とされるのは、常識の壁を超えられなかった家族らに違いありません。

 

どうか、心に余裕を。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

仕事を辞めるとカモられる!?<40代脱サラ体験談>夢の世界に潜む罠

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仕事を辞めると、そこに待つのは「自由への開放感」と「新しい人生への不安」が渦巻く生々しい世界です。

 

そんな新天地に足を踏み入れたとき、特に注意が必要なのは、転職ではなく脱サラ・独立を目指す人

 

勢いで会社を飛び出してしまった方にも言えることですが、必ず「新参者をエサにする飢えた狼」に狙われることになります。

 

収入源を探すプロセスの中で、ガラクタの眠る「宝の地図」を売りつけられたり、小麦でできた「不老長寿の妙薬」の販売ビジネスを持ち掛けられたり…。

 

今回、僕がこんな話を書こうと思った理由は何か。

 

それは、僕のところにもそんな馬鹿げた儲け話が舞い込んできたからです。

 

商材は、体内に溜まった放射能を除去する「キノコのお茶」でした。

 

さいわい、錯乱状態にない僕は「これでもか」というぐらい丁重にお断りしましたが、甘い儲け話に対する注意喚起の意味を込めて、その顛末(てんまつ)をまとめました。

 

 

弱る人を狙い撃ち 甘い儲け話にご注意を

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改めまして。

 

管理人のプーです。

 

プーログは、2018年に仕事を辞めた僕が、収入源の確保を模索するプロセスについて、リアルタイムで公開するブログです。

 

ちなみに僕は、妻子持ちの40代です。

 

もちろん、プーログに情報商材を売り込む意図は一切ありませんので、安心してお読みいただけるものと思われます。

 

 

さて、今回の儲け話を僕のもとに持ち込んだのは、50代半ばの経営者で、マッサージ店を営むEさんです。

 

この方とは友人を介して知り合いました。

 

いかがわしさがない、といえば嘘になりますが、何冊か本も出しているような、なかなか立派な方です。

 

ただ、経営も少し行き詰り、僕と同じく起死回生の手段を模索するさなかにあるようです。

 

 

 ときは2018年8月下旬――。

 

この日、「ちょっと相談がある」との連絡を受けた僕は、某所からはるばる電車を乗り継いで、Eさんのお店を訪ねました。

 

応接室のソファーに腰を掛け、呼び出しの用件を尋ねたところ、Eさんは「ガイガーカウンター放射線測定器)を探している」と話を切り出しました。

 

いわく「日本の近海でとれる魚はすべて放射能に汚染されていて、これを知らずに食べている国民は皆、深刻な放射線被害にあっている」そうです。

 

僕は「ヨドバシカメラに売っている」と親切に教えて差し上げたのですが、Eさんは「日本の放射線測定器は、事実をひた隠しにする政府によって、数値が上がらないように巧妙に操作されている」と席を立たせてくれません。

 

日本の海産物がすべて放射性物質で汚染されているかどうかはこの際別にして、「まずは市販の計測器がきちんと反応するかどうかを試すべき」と訴える僕。

 

これに対し、Eさんは「ロシア製はきちんと反応する」と腕組みを続けるばかりで、まるで話がかみ合いません。

 

いぶかしく思ったところで、件のお茶の登場です。

 

「白樺って、知ってるか?」

 

 頭の曇り 正体は「焦り」

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これ以上、当日の詳細なやり取りを書いても不毛だとは思いますが、最後にEさんの殺し文句だけ。

 

「目の前で放射線測定器を使い、その事実を客に知らせたら一発だ。俺が卸してやる。大儲けできるし、人助けにもなるぞ」。

 

 

僕は決してEさんを馬鹿にしたいわけではありません。

 

お金にまつわる焦燥感は、得てして人の思考を曇らせる点を強調したいだけです

 

 

不安な自分が、不安な誰かを食い物にする――。

 

 

お金への渇望に心が支配されると、フリーな人間の間では、こんな凄惨な食物連鎖がまかり通ってしまいます。

 

地獄から天国へと続く幻想の階段にすがるあまり、当然見えるはずの「理屈の破綻」も、無意識に見ないようにしてしまうわけです。

 

 

自分は引っかからない?

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「こんな馬鹿げた話にひっかかるわけがない」と思われた方。

 

焦りからくるお金への渇望を侮ることなかれ

 

なんだか公共広告機構のCM然としてきましたが、ピンチの中に一筋の光が差し込むと、得てして人はそれに飛びつきたくなるものです。

 

焦りまくりの自分自身はもちろん、聡明な友人・知人が甘い儲け話にすがってしまい、無残に散っていくのを「嫌」というほど見てきました。

 

 

カモがカモを探す

特に、不安や恐怖、焦りで頭の中がいっぱいになった人は、カモられがちになり、また、カモを探しがちになります。

 

さらに厄介なのは、人を食い物にする行為を正当化したいがあまり、無意識かつ自分の中だけで、売り込みたい商品・サービスの価値を極限まで肥大化させてしまうパターンです。

 

これが度を超えてしまうと、お金と時間の浪費にとどまらず、大切な友人を失ってしまうケースもままあります。

 

 きっとEさんは、白樺に生えるキノコで作るお茶に、「3万円」という売値以上の価値を見いだしたに違いありません。

 

そして、放射能汚染の地獄から国民を救う大きな使命の対価として、大金持ちになる夢を描いているのでしょう。

 

そもそも、放射線被害に心配を寄せる人らを食い物にするビジネスなど「もってのほか」だと思いますが、始末の悪いことに、Eさんはそのあたりも含めて一切見えなくなっているのです。

 

実際このお茶は、ネットで2000円前後で売られています。

 

 

スマートに成功し、お金持ちになって遊んで暮らす世界は素晴らしいのでしょうが、最短距離での実現をうたうビジネスや情報商材ほど、いい加減なものはありません。

 

大切なのは、「鵜呑みにしない」「すがらない」といったところでしょうか。

 

甘い儲け話が舞い込んできたときには、「キノコのお茶」のエピソードを思い出し、どうか一呼吸置いてください。

 

 

長文ながら、最後までお読みいただき、ありがとうございました。